名古屋高等裁判所 昭和25年(う)887号 判決 1951年4月26日
控訴人 被告人 佐藤喜久治
弁護人 江口三五
検察官 高井麻太郎関与
主文
本件控訴を棄却する。
理由
弁護人江口三五の控訴趣意は末尾添付の控訴趣意書と題する書面記載の通りである。よつて次の通り判断する。
論旨は原判決は罪とならない事実を有罪と認定した違法があると断じ論点を分けてその事由を述べるものである。
そのAについて。
所論は本件の記事並に絵画は刑法に所謂猥褻と認定さるべき程度のものではないと主張する。按ずるに性慾が生物の本能であつてその性的生活が生存の根本条件であることは所論の通りであるが、人間日常生活において性行為が公然と表現され又は描写されることは通常人が羞恥嫌悪するところであり、これまた人間本然の良俗であつて如何なる時代においても変りはない。さればその記事、絵が性行為を露骨に表現描写したものであつて一般大衆をして羞恥嫌忌の情を起させるものであるときは即ち猥褻文書図画というべきである。尤もそれが芸術的作品として羞恥嫌悪の情が緩和され或は消失される場合あることは首肯し得るけれども、具体的場合において芸術的作品であるか否かの判定はこれをみる人の教養程度、主観によつて違うのであるから芸術的価値の有無は猥褻文書図画であるか否かを決める表準とはならないものと解される。蓋し刑法上の猥褻文書図画とは、その時代の一般社会大衆の教養の水準を洞察しその文書図画が頒布販売又は公然陳列された場合、これらの人々をして性生活に対する正しい認識を誤らせ引いては善良な風俗(性行為を公然表現することを羞恥嫌悪する人間本然の姿)を破壊するに到る虞れあるものをいうと解すべきである。いま本件の雑誌についてみるにその掲載された原判示の記事並に絵は現代一般社会大衆の性慾を剌戟し性生活に対する正しい認識を誤らせるものであつて、羞恥嫌悪の情を起させるに過ぎないものである。されば原判決がこれを刑法第百七十五条に該当する猥褻記事絵画と認定したのは正当であつてその判断を誤つたものではない。また所論は被告人は本件の如き軟派雑誌の発行によつて反共産思想の昂揚を意図したものであるというのであるが、その根拠を理解し難い。また本件雑誌は量の点から観察して善良の風俗を害する程度に到つていないと主張するけれども、これが発行されたのは一万五千二百部であり岐阜市オリオン書房外三名に販売されたことが原判決挙示の証挙によつて明白であるのであるから所論の主張は到底肯定し得ないものである。よつて論旨は理由がない。
そのBについて。
所論は本件雑誌の記事、絵について被告人において猥褻の認識がなかつたと主張するのである。しかしながら本件犯罪の成立には被告人が原判示の如き記事並に絵を掲載したことについて認識を有すれば足りるのであつて、それが猥褻であるとの認識までも必要とするものではないと解すべきであるから論旨は理由がない。
そのCについて。
所論は、要するに「エロ雑誌」の存在は善良な風俗を助長するワクチン的作用を為すものであるから、本件の如き雑誌の存在もまた許さるべきであるという趣旨であるが、いまだ皮相の見解というべく到底採用するに由ないものである。
右の通り論旨は何れも理由がないから刑事訴訟法第三百九十六条に則り主文の通り判決する。
(裁判長判事 杉浦重次 判事 若山資雄 判事 石塚誠一)
弁護人江口三五の控訴趣意
原判決は罪とならない事実を有罪と認定した違法がある。
A、本件は刑法に、いわゆる「猥褻」と認定さるべき程度のものでは決してない。
第一、法律と文化の接触点。
ある文書が刑法に所謂「猥褻」文書に該当するかどうかの問題は、法律だけの問題ではなく、法律と文化とがクロスしたところにある問題であつて、それは法律世界観と文化史観によつて解決さるべきものと考える。
第二、「猥褻」の概念のきめ方
一、刑法一七五条は猥褻の文書を販売することを罰しているが、「猥褻」とは何ぞやについては、何もいうていない。これまでの学説や判例では大体性慾を剌戟し又は之を満足させるものであつて人をして羞恥、嫌悪の情を生ぜしめるものと云うことになつている。
二、しかしこの概念の決め方は根本的に転換させられなければならない。何となれば本来生物は生殖の本能と種族保存の本能とを持つている。人間も生物の一つとして、この本能に支配され性交によつて永遠の生命を持続する。
だから性的生活は社会存続の根本条件である。したがつて性慾を剌戟、満足させる文書がそれ自体わるいと云うことは、あり得ないとベーベルが云つた如く、性的衝動は道徳的なものでもなく、また、反道徳的なものでもない。食慾のように自然なものである。
又人をして羞恥、嫌悪の情を生ぜしめるのが猥褻だというが、ことは本来きわめてプライベートなことがらのうちでも特にプライベートなことに関するのだから羞恥の情を起させるということは多かれ少かれ、あたりまえのことで、恥の感情があるからこそ人間が他の動物と区別されるのだからそれも、それ自体わるいと云うことはあり得ない。嫌悪の情に至つてはまるで「猥褻」の概念をきめる基準にはなるまい。
一般大衆が、よろこんでそれに、とびつくようなものの方がむしろ問題になるのだし、刑法の対象は特に高い教養を持つた限られた少数者ではなく一般大衆を対象とするのだから。
三、性慾蔑視の思想
「猥褻」の概念についての以上のような伝統的な考え方は性慾を不道徳なものとし、肉体を蔑視する過去の思想の遺物でしかない。性慾を不道徳なものとし、肉体を蔑視する思想は儒教と仏教が日本に渡来してからのものである。
大昔の日本人は好色ということを少しも恥じなかつた。ごく自然な感情として誰もそれを、かくしたりはしなかつた。
日本民族が世界に誇る源氏物語は、おそるべき精力をもつて描かれた一大好色絵巻である。この源氏物語のころまでの日本は、まだ肉体を見失つていなかつたが、中世封建時代にはいるや、ながい内乱の結果現実迯避の気分から仏教に救いを求め儒教を学び、そして肉体のない片輪の精神主義者になつてしまつた。一切の肉体的なものが極度にいやしまれ精神的なもの、のみに権威が与えられたのである。
四、いまや時代は正にコペルニクス的転回をとげた。天地開闢以来神様であつた天皇が、人間になつた。支配する役人、支配される人民、官尊民卑は、あたりまえのことであつたのが、主権は人民に握られ、一番えらいのが人民で、役人は公僕となつた。
日本古来の淳風美俗であつた家長中心、長子独占相続、男尊女卑の家族制度は全廃され、家長はなくなり、諸子均分相続、男女同権となつた。
かつての危険思想たりし自由、平等はいまや世をあげての合言葉である。すべてがまるで逆である。たゞひとり「猥褻」の概念のみ旧にふみとゞまつていゝ道理がない。時代と共に当然動くべきである。
三、すなわち性慾を剌戟、満足させる文書もそれだけでは、わるくなくその程度が社会の秩序を破り、「風俗ヲ害スル」程度になつたとき、はじめてそれが刑法の猥褻として取締りの対象となると解すべきである。
第三、「風俗を害する」程度 どの程度になると「風俗を害する」のかは抽象的にきめることは、できない。一面においては、時代と場所によつてちがうし、他面、量が質えの飛躍をもたらす場合でなければならぬ。
一、いまの時代が、どの程度の性的剌戟に耐えうる時代であるかは、たゞに出版物だけでなく、映画、ストリツプ・シヨウの現実をみれば余り多言を要しないであろう。
二、量の点については、たつた一つでも、それ自体風俗を害するものもあろうが、量がふえるにしたがつて、一定の限界をこえて、はじめて風俗を害する程度に飛躍するものもある。
本件においては、(1) 販売の販路は、名古屋・南映社 六、五〇〇部。中部図書 五〇〇部。奈良県八木町 七、〇〇〇部。岐阜・オリオン 一、二〇〇部であり、岐阜では本屋の店頭に出る十五分位で押えられ奈良県では三、四日目に、名古屋では二日目位に殆んど全部押えられている。
(2) 本件の雑誌が最初にして最後、たつた一号だけである。しかも全部で一万五千ばかりである。それが大半押えられて、実際ながれたのは、ごくわづかでしかない。その他のこの種雑誌、例えば夫婦雑誌なぞは二五万乃至三〇万部は出ているのである。
B、猥褻の認識がなかつた。
第一、一、本件雑誌を印刷した西濃印刷というのは、本来教科書、郷土史を専問として印刷している東海地方では、古くかたい歴史を持つている印刷屋で従業員も二〇〇人以上いる。その西濃印刷の常務、槌谷(これは例の大垣の柿羊羹本店の息子で大学を出ている)も「サシテ猥褻ノ個所モ、アリマセンシ云々」と云つている。
二、西濃印刷を紹介してくれた矢沢領一も「コノ程度ナラ、ヨイデシヨウト思ツテ云々」と云つている。
三、オリオン書房(岐阜の取引先)が見本(校正刷)を名古屋、南映社(名古屋は、そこが取引先)へ持参した。南映社が名古屋の中村警察署へ見せた。そしたら「三六頁ノ一部ヲ消セバヨイ」と云つた。それで、その部分を消して発送している。消したことは南映社石井、中部図書小磯、近畿図書藤井の証明書で明かである。押収してあるのは消し忘れた、ごくわづかの部数のうちのものである。
第二、被告人は本件雑誌はサロン六月号を参考にして編輯した。
サロン六月号の「貞操トバク」と本件の「悲劇の紅バラ」とは殆んど同巧異曲でサロンの方が、もつとひどい。しかもサロンは発売部数が十万部もある。それでも何等問題になつていない。(このサロン六月号だけは特に読んでいたゞきたい。)
第三、反共の意図
一、被告人は昭和八年治安維持法違反で三ケ月の起訴保留処分になつており、昭和二十年暮には共産党岐阜地方委員会を組織し共産党に入党し、アカハタ岐阜支局の責任者となつた。
しかし昭和二十一年五月党を脱党した。
その理由は、党の方針である独占的傾向が日本の現状に合わぬ、党員が感心しない、闘争激発主義、現状破壊主義が気分に合わぬ、独裁的指令に従わねばならぬ、こと等被告人は、あげている。そしてむしろ逆に反共的思想を持つに至つた。
意識の尖鋭化こそ共産化の好餌であり意識の軟化が共産主義にとつての最大の敵であることを知つていた被告人は、ここに軟派雑誌の発行によつて反共を意図したのである。
二、従つて決して売らんかな、ばかりで始めたのではない。そして現実には十一万円ばかり損をしているのである。
三、弁護人が検事に対し事件送致書の提出を第一回公判で求めているのは同書の「犯罪の状況」という欄には、被疑者は猥褻記事たるの程度の認識に欠くるところあり編輯出版に対する無経験より、かかる事犯をなしたものと認め且つ家庭貧困の上今回の出版により相当負債となつた模様である云々。と、きわめて適切なことが書いてあるからである。
C、いわゆる「エロ雑誌」の功罪
一、エロ雑誌が青少年の不良化を助長すると心配する人がある。しかし青少年の不良化の原因はそんな甘いところには、なくて根本的には社会的、経済的、思想的な他の分野にある。
二、なるほどエロ雑誌は感心しない。中央公論、改造、世界なぞは、いいでもあろう。しかし、そういう高級なものを、もつていつてもまるで喰いつく能力を持たないアロハやリーゼント・スタイルの連中は何によつて読書力を養うのか。小学校で先生にかくれて猿飛佐助の豆本に耽溺した「困つた子供」が、やがて長じて、たくましい読書力を持つに至つた事例をわれわれは幾らでも知つている。いまエロ雑誌に耽溺しているアロハの連中だつて、やがてはそれにあきてくる。そしてそれによつて養われた読書力によつて更にそれ以上のもの求めるようになるのである。
三、カストリ雑誌、エロ出版物が、氾濫した頃、総司令部にお願いしてとか、警察にたのんでとか、つまり権力にすがつて取締つてもらおうと考える人が多かつた。戦後の日本が民主主義国ということをウツカリ忘れると、こんな考え方が出る。ところがその後エロ出版物は次々と立ちゆかなくなつて、つぶれて行つた。そんな出版物が、だれの手でも容易に手に入るようになつてみると何度かは買つてみるが結局同じことばかりで面白くないからやめてしまう。元来が白昼公然と大衆の眼の前にさらしておくと太陽の直射に、たえるものではないのだから独りでしぼんでしまうのである。官憲がおせつかいをして禁止したりすると、かえつて好寄心をそそる。官憲の手をわづらわさなくても、カストリ、エロの追放は国民の常識で十分出来るし、それでなければ本物でない。
四、もつとも民主主義の根が浅く自分で判断する能力のないものにとつては危険でもあろう。だから幼少年に対してはエロの危険から大人が守つてやらねばならぬ。しかし、そのことは権力と威嚇で、エロを絶滅せよ、ということでは決してない。ある程度のバイキンにふれることは体の中に抗毒素を、つくらせることになるので多少のバイキンが空気中に存在することは必要だとすらいえる。
D、結論
以上を要するに、いかなる意味においても本件は猥褻文書として刑罰を以て取締る程度に至つているものとは考えられないよつて大英断を以て御裁判所において無罪のご判決を賜わりたい。